聖書の神様に祈る方法

祈りとはなんでしょうか?

簡単な質問かもしれませんが、考えたことはありますか?

受験や就活から健康や恋愛のことまで、いろんなことで手を合わせて願ったことがあるかもしれません。お正月になれば多くの人が初詣にいきますね。

この記事では「祈り」について一緒に考えてみたいと思います。

結論から言いますと、現代の日本人が抱いている「祈り」についての考え方が古くて間違っている部分があります。

この記事で紹介する「祈り」のコンセプトはまだ日本では主流になっていないだけで、決して新しくはありません。

歴史上最大のベストセラーとしてギネス世界記録をほこる「聖書」が祈りについて教えてくれていることをみていきます。

目次

1. 誰に祈るの?
2. どこで祈るの?
  祈りに対する誤解その1:場所
  聖書の神様のプロフィール
3. 誰が祈れるの?
  祈りに対する誤解その2:アプローチ
4. 聖書の神様との関係
  関係の修復
  神様へのアプローチ
5. 初めてのお祈り

誰に祈るの?

日本には八百万(やおよろず)の神がいると言われています。祈る時は一般的に賽銭箱(さいせんばこ)の向こう側にいる「神」に向かってお願い事をしているのではないでしょうか?

ここで一つ質問です。どのようにしてその「神」が祈りに応える力があると分かりますか?

お正月になると熱田神宮や伊勢神宮に足を運ぶ人が多くいます。明治神宮や成田山新勝寺も有名です。たくさんの「ご利益」を求めて、何箇所も回る方もいらっしゃいます。

でも、実際に寺や神社で祀られている神は力があるのでしょうか?

誰もが一度は見たことのある一万円札に載っている福沢諭吉から学んでみましょう。

福沢は子供の頃、かなりのいたずらだったようです。皆が何に手を合わせているのか気になって、ひそかに見に行ったそうです。そうしたら、稲荷の社には石しか入っていなかったそうです。福沢は実験することにして、その石と他のそこら辺にある石とすり替えて、観察することにしました。福沢諭吉がこう書きました:

「その石をうっちゃってしまって代りの石を拾うて入れて置き、(略)間もなく初午になって幟を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイワイしているから私は可笑しい。馬鹿め、乃公(おれ)の入れ置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白いと、独り嬉しがっていたというような訳で、幼少の時から神様が怖いの仏様が難有(ありがた)いだのということはちょともない。」

福沢諭吉は、その神社で祀られていたものは力がない単なる石に過ぎないことに気づいてしまったのです。

もちろんたった一つの例ですが、自分が手を合わせて祈っている「神」には本当に力があるのか考える必要があります。

 祈りに対する誤解 その1

神社やお寺の話が出たところで、多くの日本人が持っている祈りに対する考え方が浮上します。あなたはそれに気づいていますか?

何が古い考え方なのかと言いますと、「指定の場所で祈る必要がある」という考え方です。

ここで聖書が「神」について教えていることを少し考えたいと思います。聖書によると、八百万の神より強い神が存在します。そして、どこでもこの神に祈ることができるのです。

言い換えてみれば、人間が作る空間に縛られていない神が存在します。

古代のギリシャでは日本のように多くの「神」が祀られていました。ゼウスやポセイドンなど。

しかし、そんなギリシャの都アテネでは、すでに1世紀のとこに次の言葉が語られていました。

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。

(使徒の働き17:24 ― 聖書)

ここで聖書はまず世界を作った神様が存在するということです。私たちの始まりは偶然ではありません。私たちが存在する理由は神によって作られたからだと聖書は教えているのです。

そして、聖書はこのパワフルな神様が「手で作られた宮には住んでいない」ということも教えています。もしこれが本当だとしたら、どれだけご利益があると言われているところでも、世界を作った神様はそこにいないということになります。

人が作った宮に住んでいないパワフルな神様とは、どのようにしてコミュニケーションを取れるのかについて考えてみましょう。

どこで祈るの?

歴史に登場する「イエス・キリスト」は私たちにこのパワフルな神様について色々と教えていました。実は聖書が書かれていた時代にも「祈り」や「神」にまつわる質問や疑問がたくさんありました。

聖書の中にイエスが祈りや神体についてとある女性とお話したシーンが残されています。その会話の中で、イエスはこう言いました:

イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。―イエス・キリスト

(ヨハネの福音書4:21、23 ー 聖書)

ここで注目したいのは祈る「場所」のことです。

この女性は「どこ」で祈れば良いか聞いたところ、イエスは「その考え方は古い!」と答えたのです。聖書の神様に祈る時、実は場所に縛りはありません。

聖書の中には、貨物船や刑務所から自宅や山の上まで、幅広いシーンで祈りが見られます。仕事中に一言祈る人もいれば、一晩中祈る人も出てきます。なぜなら、聖書が紹介している神は時と場所に縛られていない神だからです。

聖書の神様のプロフィール

雑誌やネットでさまざまな「神」が特集で取り上げられていますが、聖書の神様はどのような神なのでしょうか?聖書の神様の簡単なプロフィールを見てみましょう:

  • 宇宙を言葉で作る神
  • 雨を降らせる神
  • 知恵と知識を与える神
  • 危険について警告してくれる神
  • 一人ひとりの髪の毛の本数を知っている神
  • 言葉を話す前に、何を喋るのかが分かる神
  • 人の行動だけでなく、動機も測る神
  • 人の心にある計画も見える神
  • 超自然的に人の体を癒せる神
  • 子供の成長
  • 人に仕事を与える神
  • 人にビジネスをする知恵と力を与える神

これほどの力をもっている神様だからこそ、唯一無二の神だと言われています。

誰が祈れるの?

どこで誰に祈るのかを考えていきました。次に誰が祈れるのか考えてみましょう。

ここでもう一つ古い考え方が見えてきます。その古い考え方とは誰でも神様のところに来て祈って、何かをしてもらえるという考え方です。実はこの考え方も間違っているんです、、、

先ほど見たイエスの言葉をもう一度見てみましょう:

御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。 ーイエス・キリスト

ここで「御霊」と「真理」の二つのキーワードが出てきます。

簡単にいうと、神様への正しくアプローチする方法あるという意味です。どこでも祈ることができても、正しい方法で祈る必要があります。

方法とは特定のポーズの意味ではありません。それよりもっと深いのです。

神様との関係

神様に正しくアプローチしてお願いごとをするためには、まず神様と正しい関係にある必要があります。

神様と正しい関係を持っていますか?

日本ではお参りをする際に自分のお名前と住所もお祈りの最後に言うのがマナーだそうです。

でも聖書の神様に自分の名前と住所を言う必要はありません。あなたのことを詳しく知っているからです。

聖書の中にこの言葉が書かれています:

二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

聖書

アサリオンとは当時の1日分の賃金の16分の1相当でした。今のお金にしたら5-600円でしょうか。

聖書の神様はあなたのことを深く知っています。ワンコインのスズメのことをまで知っている神様は、あなたのことはなおさら知っていると言うことです。髪の毛の本数すら知っているのです。

しかし、聖書の神様とあなたの間に大きな壁ができています。

世界を作った神様は私たち生活できるように太陽を昇らせて、雨も降らせてくださいます。私たちに「いのち」も与えてくれます。

しかし、聖書によると私たち一人ひとりはこの神様に背を向けているのです。背(そむ)きの罪があるのです。

神様の戒めを守ろうとしない人もいれば、真面目に生きている人もいます。しかし真面目な人でさえ、自分の力で全てを築き上げてきたと高ぶる時があったり、自分は人様より良い人だと考えたりします。このようなプライドすら神様は大嫌いです。

神様は私たちのことを詳しく知っているので、人に知られていないことも全部お見通しです。

関係の修復

実は、神様から遠くかけ離れた私たちを助けるために来たのがイエス・キリストなのです。聖書によると、神様は人となってこの世界に来られました。その人とはイエス・キリストのことです。

イエスは私たちの背きの罪のために十字架にかかって死なれました。無実なイエスが身代わりとなったのです。

そして、死んだイエスは3日後に生き返りました。その出来事は一度に500人も目撃した出来事でした。

このイエスが人の罪をさばく時がくると聖書は警告もしています。

その反面、良いお知らせもあります。今歩んでいる道が間違っていると認めて、自分のためにイエスが死んで生き返ったと信じる人を神様は赦してくれると聖書は約束しています。

背を向けて「知らん」と言って関係がめちゃくちゃだった神様と良い関係を持てるようになります。

聖書の中にこう書いてあります:

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

(ローマ人への手紙4:25 – 聖書)

ここで「義」と言うことば、罪のない正しい状態を意味します。イエスのゆえに正しいとみなされるのです。

聖書の神様はこれほど素晴らしい神様なのです。

神様へのアプローチ

イエスを信じると、罪が赦(ゆる)されるだけではなく、宇宙を作った神様と親しい関係をもつことができます。

しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(聖書)

(ヨハネの福音書1:12ー13 ー 聖書)

良い関係だけではなく、イエスのおかげで神様の家族に加えられるのです。

最初のお祈り

他の神様を離れてイエスを信じるためにはどうしたら良いのでしょうか?

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ人への手紙10:9ー10 ー 聖書)

聖書の神様への最初のお祈りとして、つぎのような言葉を祈るのはどうでしょうか?

声に出しても良いですし、心の中でも大丈夫です。

天地を作った神様、私はあなたに背を向けて生きてきました。あなたに対して罪を犯してきました。自分でそむきの罪の償いができない自分のために、イエス・キリストが死んで生き返ったことを信じます。どうかこの自分をイエス・キリストのゆえに赦して受け入れてください。あなたのために歩めるようの、どうか助けてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

もし、今日イエスを信じたのであれば、もっと聖書の素晴らしい神様を知っていただくために聖書をプレゼントしたと思います。

また、この記事を読んで「もう少しお話が聞きたい」と思った方から「私は今日イエスを信じた」と言う人まで、ぜひ一度こちらのページにあるフォームからお問い合わせください。

もう少しお話を聞いたい方にはご連絡いたします。

イエスを信じたかたには、聖書の神様をもっと深く知ってもらうために新約聖書をプレゼントしたいと思いますので、ご連絡いただければと思います。

ぜひ、この素晴らしい神様のことを知っていただければと思います。

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