キリスト教には「バプテスマ」や「洗礼」という言葉が時々使われます。この記事では聖書からバプテスマについて説明します。
バプテスマとは
バプテスマは、信者が自分の救いを公に示す行為です。
言い換えてみれば、バプテスマは入学式のようなものです。入学式で入学が決まっていることを公にします。また、入学式に出られなくても、入学が決まっています。
同じように、バプテスマを通して、私たちはイエスを信じたことを公にします。クリスチャンとして歩むことを表す一歩にもなります。
バプテスマの意味
「バプテスマ」は、ギリシャ語のβαπτίζω(バプティゾー)という言葉からきています。「浸す」という意味の言葉です。そのため、聖書的なバプテスマは全身を水に浸します。聖書に出てくる例もこのことを表しています:
「イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
マルコ1:9−10
そして、馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
使徒の働き8:38
誰がバプテスマを受けるべきか
バプテスマは、イエス・キリストを救い主として信じた人のためです。バプテスマは人を救うことも罪を洗い流すこともできません。すでにイエスを信じていて、バプテスマを受けていなければ、バプテスマを受けるべきです。
「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」
使徒の働き2:41(新約聖書)
バプテスマの象徴
バプテスマは、キリストの死、埋葬、と復活を象徴しています。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
ローマ人への手紙6:4−5
なんでバプテスマを受けるのか
聖書の中でバプテスマを受ける三つの理由が出てきます:
- イエスが命じたから(マタイ28:19)
- イエスがお手本として受けたから(マタイ3:13)
- 聖書の中に出てくる信者が行っていたから(使徒の働き2:41)
バプテスマと洗礼の違い
ある団体では、バプテスマのことを洗礼とも呼びます。私たちの教会では、バプテスマを洗礼と呼ばない理由が二つあります。
- 私たちが使っている聖書(新改訳聖書)には洗礼という言葉がないから
- 洗礼は、水を頭の上に注ぐという聖書的ではないバプテスマの意味も含まれているから
※小児洗礼・幼児洗礼について: 聖書の中には、小児洗礼・幼児洗礼の例は一つもありませんので、聖書的なバプテスマとして認められません。
バプテスマを受けるタイミング
聖書の中では、イエスを信じた後に人々はバプテスマを受けました:
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。
使徒の働き16:31−33(新約聖書)
バプテスマを受けないとどうなるか
バプテスマは、人を救うことができません。しかし、イエスに従うためには必須です。イエスを信じていながら、バプテスマを受けない人は、入学が決まっていながら、入学式に出たがらないような人のようです。また、結婚していながら、結婚していることを隠そうとして結婚指輪をはめないことに似ています。
バプテスマを受けたがらない信者は、イエスが自分を救ってくださったことを恥と思っていることになります。イエスに従う時の祝福と、自分の救いの証しする大きなチャンスを見逃していることにもなります。
こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。
ヤコブの手紙4:17(新約聖書)
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です
ヨハネの福音書8:31
わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
ヨハネの福音書15:14
イエス・キリストを信じたら、クリスチャンとしてイエスに従う第一歩と考えてよいでしょう。