突然ですが、イエス・キリストはどういう人だったか知っていますか?
もしかしたら学校や塾で聖書のことを歴史の視点から少し学んだことがあるかもしれません。でも実際にどういう人で、何を教えたかを聖書で調べてことはありますか?
今日は聖書の中に出てくるイエス・キリストの奇跡、予言、そして復活についてみていきます。
イエスの奇跡
多くの宗教には、超自然的な奇跡の言い伝えがあります。でも目撃者がゼロだったりたったの一人だったりします。目撃者がいる場合、宗教の創始者のケースが多いです。
「その場に他に誰もいなかったけど、すごいことが起こりました」みたいな感じで話が進んでいきます。疑わしい話がほとんどです。
しかし、聖書の中に出てくるイエスの奇跡は違います。人前で行われた奇跡が色々ありました。いくつかの例を見てみましょう。
中風(歩けない人)の人を癒した奇跡
10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。11「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。
マルコ2:10−12(聖書)
目の見えない人を癒した奇跡
29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」34イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
マタイ20:29−34(聖書)
どこか山奥で密かに行われた奇跡ではありませんよね?
イエスの評判はあまりの良かったため、イエスに敵対していた当時の宗教的リーダーたちはイエスに手を出せなかったエピソードも聖書の中に出てきます。
最終的にイエスを夜中に捉えて十字架にかけますが、イエスの教えや奇跡は公の場で行われていたのは事実です。
イエスの予言
ありとあらゆる方法や場所で奇跡を行ったイエスでした。そんなイエスですが、「これからこういうことが起こりますよ」と予言をしたら、気になりませんか?
実は、そういうエピソードが聖書に出てきます。
まずはこちらを読んでみてください:
31 さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。32 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
ルカの福音書18:31−33(聖書)
イエスは自分が殺される方法だけではなく、生き返る(よみがえる)予言もしました。
当時イエスの敵だった人たちもこのことを理解していました。イエスが十字架で死なれたあと、弟子たちが遺体を盗んで「生き返った」と言わないように、当時の指導者たちは兵隊に墓を番をさせました。
62 明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、63 こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」65 ピラトは彼らに言った。「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」66 そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。
マタイ27:62―66
イエスは人前で奇跡を行いました。そして、予言もしたイエス・キリストです。その後、どうなったのでしょうか?
イエスの復活
イエスは十字架で殺されました。ローマ兵がイエスの死亡を確認しました。イエスの遺体は岩に掘られた墓に収められました。そして、大きな石でその口は塞がれていました。それに加え外に兵隊が番をしていました。これらは聖書の中にあるマタイの福音書の27章62−66節とルカの福音書の23章50−56節に書いてあります。
でもイエスが死んだ3日後の朝、イエスの遺体に油を塗りたいと思った女性たちが墓に現れました。(当時は火葬する文化ではありませんでした。エジプトのミーラのような感じを想像すればいいかもしれません。)
しかし、彼女たちは、違う光景を目の当たりにしました。
1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
ルカの福音書24:1−3
墓を塞いでいあ石が動かされていて、中にイエスの遺体がありませんでした。
彼女たちはイエスの弟子たちにこの出来事を伝えたところ、信じてもらえませんでした。しかし、イエスは彼らに現れて、自分が生き返ったことを表しました。
「幽霊だったのでは?」と思う人もいるかもしれません。イエスが弟子たちに現れた時も、弟子たちはそう思いました。聖書の中にはこう書いてあります:
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
ルカの福音書24:38−39(聖書)
その後、一緒に食事もしました:
41(イエスは)「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。
ルカの福音書24:41―43(聖書)
そしてその後も一度に500人以上の人に現れたという記録も残っています(1コリント15:6)。
人前で奇跡をおこなったイエスは、自分の死と復活を予言しました。そして、それを成し遂げました。
イエス・キリストは只者じゃないことが分かります。そんなイエスの発言をいくつかみめみましょう。
自分が神だという発言
イエスは自分が神様だと主張しました。日本の八百万の神の一人ではなく、聖書が教えている唯一の神です。
聖書の中ではこう書かれています:
17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
ヨハネの福音書5:17−18(聖書)
とうじの社会では軽々しくいう言葉ではありませんでした。なぜなら「冒涜罪」(ぼうとくざい)があったからです。冒涜(ぼうとく)とは、神様を侮辱(ぶじょく)する行為のことです。冒涜罪(ぼうとくざい)で命を失うことが可能でした(現代ですと、イスラム教が盛んな国には似たような法律があります)。
当時の人たちはイエスが自分は神だと言ったことに気付きました。そして、冒涜したと思ったのです。しかし、先程みたイエスの奇跡や復活はイエスが神様だという一つの証明になります。
人の問題は心にあるという発言
神であるイエス・キリストは、人の問題がどこからくるのかを教えてくれました:
口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。 20 これらのものが人を汚します。
マタイ15:18―20 (聖書)
身の回りにある争い、戦争、ねたみ、盗みなどは心の底にある問題が表面に現れているだけです。
心の中で問題があるから、人殺しが出てきます。他の人と寝る前に、心の中で問題があるから最終的に不倫関係が浮上します。心の問題、それが、人間を汚すのです。
この心の問題が結果的に招く多くの悪行を聖書は「罪」と呼びます。
人を救うために来たという発言
イエスは地上で多く肩書きがありました。一般的に知られているのは「キリスト」かもしれません。「キリスト」は聖書が教えている人類の救世主を指す言葉です。
イエスご自身はこう言われました:
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。
ルカの福音書19:10(聖書)
イエスは私たちを救うために来たのです。
そして、聖書ははっきりとイエス以外には救われる方法はないと教えています。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
使徒の働き4:12(聖書)
このため、私たちの本当の問題を解決できる方は一人しかいないということになります。
私たちの教会は「キリスト教会」です。イエス・キリストの素晴らしさを祝うとともに、もっと多くの人にイエスを紹介して、その素晴らしさを知ってほしいです。一度、教会に来て聖書の教えを聞いてください。